・楡木宿の鎮守である楡木神社は奈良時代に制定された律令国の等級区分の上国で身分の高い人物が討死し、その遺骨を家臣達が開創し開創したとの由緒を伝えており、これが事実とすれば奈良時代頃には既に開かれていた可能性があります。
元和3年に2代将軍徳川秀忠が父親である徳川家康の霊廟(日光東照宮)を日光山に造営するにあたり、物資輸送と技術者の往来の利便性を図る為に日光西街道(壬生通り)を開削すると、当地はその街道沿いに位置していた事から重要視されるようになり、設置規模や設置時期等の詳細は不詳ですが楡木御殿が設けられています。
楡木村が宿駅に指定され宿場町として町割りされたのは寛永年間と推定され、寛永14年に編纂された楡木宿割帳によると、一戸分の敷地の間口は7間半、60間分が割付されています。
正保3年に3代将軍徳川家光の要請により奉幣使として日光東照宮に持明院基定が遣わされ、例幣使が毎年日光東照宮の例祭に捧げものを奉納するようになりました。
日光例幣使街道が開削されると、楡木宿はその宿場町にもなり、楡木追分が日光西街道(壬生通り)と日光例幣使街道の分岐点になった事から利用者が増大しています。
天保14年に編纂された壬生通宿村大概帳によると、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠15軒、地子免許1千8百坪、人馬継問屋場2軒、宿建人馬13人、13疋、男性253人、女性258人、家屋128軒、町並みは壬生通りが6町2間、日光例幣使街道が2町30間でした。
宿場の規模が小さかった事から隣の奈佐原宿とは合宿で、鹿沼宿の上り荷は楡木宿、壬生宿の下り荷は奈佐原宿が継ぎ立てを担当しています。
現在は楡木追分道標や成就院境内にある「しだれあかしで」等の見所があるものの道路の拡幅や建て替え等が進み伝統的な建物が失われつつあります。
日光例幣使街道:宿場町・再生リスト
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