・八木の地名は集落の両端の左右に松の大木が2本ずつ植えられ合計8本あった事が由来すると伝えられています。
八木宿村の集落的な発生は判りませんが鎮守である母衣輪神社は上古に開創されたと伝わる古社で、倭建尊が東夷東征で当地まで進軍した際に戦勝祈願を行ったと伝えられています。
ただし、社号から察すると秋田県横手市に鎮座している保呂羽山波宇志別神社の開創年である天平宝宇元年よりは下ると思われます。境内に生える銀杏と楠は貴重な事から足利市指定天然記念物に指定されています。
天保14年に記録された日光例幣使街道宿村大概帳によると、当時の八木宿は本陣1軒、旅籠は中6軒、小13軒、合計19軒、人馬継問屋3軒、家屋96軒、人口は男性222人、女性320人、合計542人、町並みは東西6町だったと記されています。
本陣は屋号として「千代本」を掲げた寺山家が歴任し上宿に屋敷を構えていました。名主は享保年間に三郎兵衛、重右衛門、弘化年間に安右衛門が務めています。
寛永10年には古河藩、正保元年には藩主土井家の分家にあたる土井利房領、その後館林藩を経て、天和2年に旗本の能勢家領となり、明治維新を迎えています。
宿場の規模は大きくありませんが、飯盛り女が認められていた事からそれなりの需要があったとされ、八木宿で働いていた遊女達が故郷を懐かしんで歌った民謡が八木節の起源になったと云われています。
明治時代以降も賑わっていたものの風紀的な問題等から明治41年に福居町に遊郭が設けられましたが、昭和初期に廃れたとされます。
日光例幣使街道:宿場町・再生リスト
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