・合戦場の地名の由来は大永3年に宇都宮忠網と皆川宗成が激戦を繰り広げた河原田合戦の戦場だった事に由来すると云われています。
河原田合戦は宇都宮忠綱が約2千の兵を率いて皆川領に侵攻した事を受け、それを食い止める為、皆川宗成が7百の兵で当地に布陣し激しい戦いが行われました。
合戦は兵力が勝宇都宮勢が大勝したものの、両軍合わせて300人に及ぶ戦死者を出す激闘だったとされ、皆川方の援軍である小山氏、結城氏連合軍1千8百人が着陣すると、不利を察した宇都宮勢は撤退しています。
村人達は戦死者を一か所に纏めて塚を設けて埋葬すると篤く弔い、何時しか「升塚」と呼ばれるようになっています。「升塚」は貴重な事から栃木市指定史跡に指定されています。
慶長元年に結城秀康の取立てによって日光山御用伝馬宿に指定され、宿場の外れには磐列神と根裂神の御霊が勧請され鎮守である星宮大権現(現在の磐根神社)が開創されています。
江戸初期に例幣使街道が開削されると改めてその宿場町となっています。
合戦場村は当初、古河藩領でしたが、その後天領となりさらに関宿藩領、旗本の藪領(5千石)に移行しています。
江戸時代後期に編纂された宿村大概帳によると本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠は大4軒、中7軒、小14軒、問屋は下町と上町に各1軒ずつで、毎月1日から13日が下町、14日から末日までが上町が人馬継の業務を行っています。
宿場の町並みは南北六町二十三間で、中町に屋敷を構えた秋田家が本陣を歴任し、建坪84坪、表門と式台付玄関を備え、同じく中町に屋敷を構えた若林家が脇本陣を歴任しています。
合戦場宿は日本発の5馬力誘導電動機を開発し株式会社常陸制作所の創業者である小平浪平の出身地としても知られ、少年期に過ごした生家(敷地面積約2千4百u、母屋:木造2階建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、土蔵は浪平が勉強部屋として利用した離れ)は栃木市に寄贈され、合戦場のシンボル的な存在となっています。
日光例幣使街道:宿場町・再生リスト
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