足利家:概略と菩提寺 |
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【 菩提者 】 | 足利家は源義家の4男とされる義国の次男源義康が領地である下野国足利荘の地名に因み足利氏を称したのが始まりとされます。跡を継いだ義兼は早い段階から源頼朝に従い、元暦元年(1184)の木曽義高追討や治承4年(1180)から元暦2年(1185)の平家討伐(治承・寿永の乱)、文治5年(1189)の奥州合戦などに従軍し大功を挙げ鎌倉幕府の御家人の中でも源氏一門として御門葉と呼ばれ足利家発展の基礎を築きました。足利家の菩提寺の1つである鑁阿寺(足利市)は義康が居館(足利氏館:日本の名城100選)を設けた際、屋敷内に御堂を設け持仏の大日如来像を祀ったの始まりとも、建久7年(1196)、義兼が持仏堂を建立し理真を招いて開山したのが始まりとも云われています。文暦元年(1234)には3代義氏が足利家の菩提寺(氏寺)として整備、多くの堂宇を造営し父親である義兼の戒名「鑁阿」から鑁阿寺と呼ばれるようになりました。室町時代に入ると足利将軍家や足利公方から庇護され、応永14年(1407)には3代鎌倉公方足利満兼により経堂(国指定重要文化財)が再建されています。室町幕府が滅亡し足利家が没落すると衰微しましたが、江戸時代に入ると徳川将軍家が源氏の一族である新田氏の一族、世良田氏の後裔を自称した為、世良田氏の祖となった世良田頼氏の正室が義氏の娘である関係から同族の菩提寺として庇護され寺領60石が安堵されました。特に5代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院(異父弟にあたる本庄宗資が足利藩を立藩したのにも関係があるのかも知れません)が鑁阿寺多宝塔(栃木県指定文化財)を再建(相輪の宝珠に寛永6年:1629年の銘がある事から再建ではなく改修したとも)し足利家と徳川家の大位牌が安置されています。又、11代将軍徳川家斉は鑁阿寺境内に御霊屋(栃木県指定文化財)を再建し本殿には足利十五代将軍像を安置し、本堂の裏手には源義国と足利義康の墓が建立されています。
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【 寺 号 】 | 鑁阿寺 |
【 所在地 】 | 栃木県足利市家富町 |
【 創建年 】 | 建久7年(1196) |
【 開 山 】 | 理真 |
【 開 基 】 | 足利義兼(戒名:鑁阿) |
【 山 号 】 | 金剛山 |
【 宗 派 】 | 真言宗大日派 |
【 本 尊 】 | 大日如来 |
【 備 考 】 | 鑁阿寺本堂−国宝−指定日:平成25年
足利氏宅跡(鑁阿寺)−国指定史跡−指定日:大正11年 木造足利歴代将軍坐像(15躯)−栃木県指定文化財−指定日:昭和56年 御霊屋(足利大権現・赤御堂)−栃木県指定文化財−指定日:昭和56年 多宝塔(内部に足利家の大位牌安置)−栃木県指定文化財−指定日:昭和41年 紙本著色鑁阿上人自画像−足利市指定文化財−指定日:昭和34年 紙本著色足利義氏像−足利市指定文化財−指定日:平成12年 木造武将像(源義国・足利義康・尊氏)−足利市指定文化財−指定日:平成12年 木造足利義兼坐像−足利市指定文化財−指定日:平成12年 智願寺殿(北条時子:義兼の正室)御霊屋(蛭子堂)−足利市指定文化財−指定日:平成3年 大酉堂(旧足利尊氏公霊屋) 源義国と足利義康の墓 |
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