【 菩提者 】
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武茂家は宇都宮家7代当主宇都宮景綱の3男泰宗が正応から永仁年間(1288〜1298年)頃、下野国武茂郡を与えられ地名に因み武茂氏を称したのが始まりとされます。その後は宇都宮家の有力支族として重要視され勢力も拡大、特に泰藤は新田義貞の倒幕に参加、その後も全国各地に従軍し大功を挙げています。6代持綱が応永14年(1407)に宇都宮家を継いだ事で武茂家は一時廃絶となっていましたが、持綱の娘と芳賀成高の子供である正綱が武茂家の名跡を継ぎ再興、しかし、その正綱も宇都宮家16代当主に就任した為、3男兼綱が武茂家の名跡を継いでいます。兼綱は居城である武茂城の修復拡張や明応8年(1499)には武茂家歴代の菩提寺である乾徳寺(那珂川町)の創建など領内整備を行っています。戦国時代に入った天正年間(1573〜91)、当時の当主守綱は佐竹氏の猛攻を受け従属するようになり、その後は佐竹氏に従い対立した那須家と度々戦を行い信任を得ています。豊綱の代には佐竹氏から裏切りの嫌疑を掛けられるなど立場が悪くなり文禄4年(1595)には事実上家臣として組み込まれ常陸国久慈郡大賀村に移封となりました。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで佐竹氏は東西中立を保った為、出羽国6郡(後の久保田藩)に移封となり、武茂氏も家臣の1人として随行し佐竹家の家中では家老や所預(他藩では支城城主級)を輩出する引渡二番座の格式を得て十二所所預などを歴任しています。
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