【 菩提者 】
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大関家は桓武平氏大掾流・小栗氏の後裔とされる小栗七郎が常陸国小栗御厨庄大関郷を領した事から地名に因み大関氏を称したの始まりとされ、跡を継いだ大関高清を大関家の祖としてます。又、一説には武蔵七党(横山党、児玉党、猪俣党、村山党、野与党、丹党、西党)の丹党の後裔が武蔵国児玉郡大関村を領し大関氏を名乗ったとも云われています。足利尊氏と弟である足利直義との対立である「観応の擾乱(貞和5年:1349年〜観応3年:1352年)」では尊氏方に属し、その功により下野国那須郡内の松野郷、大桶郷を与えられ那須地方へ進出の切っ掛けとなっています。その後は那須家の重臣として重用され那須七党(那須7騎)に数えられるなど次第に勢力を広げました。戦国時代に入ると、主家である那須家を凌ぐ勢力となり度々独立を画策しますが、逆に那須七党の1つである大田原資清に天文11年(1542)大敗し、当主を資清の長男高増を迎えた事で血筋としては大関家は滅びた事になります。大関家の名跡を継いだ高増は本拠を黒羽城に移しする那須家家中の中では最大勢力となり、天正18年(1590)の小田原の役では逸早く小田原参陣を果し、念願だった那須家から独立し高増に1万石、息子である晴増に3千石が安堵され1万3千石の大名家となり、逆に那須家は参陣出来なかった事から改易(その後復権)となっています。跡を継いだ弟の資増は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍方に与して上杉景勝に備えた為、7千石が加増され合計2万石で黒羽藩を立藩、初代藩主となっています。4代藩主増親は弟である増栄、増君に1千石づつ分与した為、1万8千石となりました。15代藩主増裕は藩校である作新館の開校や軍び近代化など行った名君だったとされ幕政においては海軍奉行や若年寄などを歴任しています。戊辰戦争の際には最後の藩主となった増勤が新政府軍に与し、東北各地に転戦し功を挙げ永世賞典禄1万5千石を贈与されています。大雄寺(大田原市)は大関家歴代の菩提寺で天正4年(1576)に高増によって現在地に移され中興開山しています。寺号である「黒羽山久遠院大雄寺」は先代で血筋からすると大関家最後の当主となった増次の戒名「久遠院殿超山道宗大居士」に因んでいます。大雄寺境内には歴代大関家の墓碑(大田原市指定史跡)、大雄寺本堂(栃木県指定重要文化財)には位牌が安置、紙本著色大関美作守高増画像(大田原市指定文化財)など大関家縁の品々を多数所有しています。
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