太平山神社(栃木市)概要: 太平山神社は栃木県栃木市平井町に鎮座している神社です。太平山神社の創建は垂仁天皇の御代(紀元前29〜紀元後70年)に三輪山(現在の太平山)の山頂付近に大物主神と天目一大神が勧請されたのが始まりと伝えられています(天目一大神は引き続き太平山神社の奥宮(剣宮・武治宮)の祭神として祭られています)。太平山(標高:345m)は、山姿の美しさや関東平野を一望にすることが出来る眺望の良さ、周辺からは弥生時代の祭祀遺跡が存在し、祭祀に利用したと思われる遺物が発見されている事から古代人の素朴な畏敬の念が信仰の始まりと思われます。太平山神社を紹介するサイトには祭祀遺跡の存在や祭祀遺物が出土したので記述が多く見られますが、具体的にどの様なものだったのかは記載されておらず詳細は不詳、せめて遺跡の規模や遺物の種類などが判れば想像する事が可能なのですが全く判りません。
太平山の山容も所謂「神奈備型」のような印象的な景観をしている訳でも無く、積極的に信仰の対象になる別な理由があるかも知れません。特に、太平山は元々三輪山と呼ばれ、当社も大神神社と号していたようで、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に都賀郡に鎮座する式内社(小社)として記載されている大神社の論社とされ、大和朝廷からの政治的な背景も推察されます(※大神神社の論社は他に栃木県栃木市惣社町に鎮座する大神神社がありますが、あくまで下野国の惣社である事から当社の方が有力とされます)。慈覚大師円仁については栃木県の壬生町や岩舟町が生誕地である説が有力な事から、高僧になった後も下野国と関わりがあった可能性もあり、全く否定出来ないものがあります。
神護景雲3年(769)に山頂からやや下った現在地に遷座し、天長4年(827)に、下野国(現在の栃木県)では悪天候による災害や飢饉、疫病などが蔓延し多くの住民が疲弊していた為、淳和天皇の勅願により、瓊々杵命、天照皇大神、豊受姫大神の3神の分霊を三輪山(現在の太平山)に勧請しました。その際、慈覚大師円仁(平安時代の天台宗の高僧、天台宗第3代座主、入唐八家)が、祈願すると忽ち鎮まった事から太平の社(太平山神社)と呼ばれるようになり、神への感謝の意から社殿が造営されています。
太平山神社は室町時代の明徳3年(1392)に後小松天皇から勅額を賜うなど隆盛し最盛期には摂末社および寺院が80余に及び大きな影響力がありましたが、天正12年(1584)に太平山一帯は、北条氏と皆川氏との戦いの激戦地となり太平山神社も兵火にあい多くの社殿や記録、社宝が焼失し淳和天皇と後小松天皇から賜った勅額も失っています。
江戸時代に入ると幕府から庇護され、特に3代将軍徳川家光の子宝祈願が太平山神社に行われ、見事世継ぎが誕生した事から、乳母である春日局は刀剣類を奉献し、慶安2年(1649)には家光から境内門前の山林や社領50石が安堵されています。江戸時代末期の元治元年(1864)には水戸天狗党が太平山多聞院に本陣を置き尊皇攘夷の旗印を揚げをした歴史上の舞台にもなり、明治14年(1881)には水戸天狗党の鎮魂碑(おもう、むかし勤王の士 義旗をこの地にあげ 方今よりて無事 石に題す)が秋月種樹(高鍋藩主の世子)が中心となり建立されています。
古くから太平山神社は神仏習合し別当寺院として大平山寶樹院太山寺が祭祀を司ってきましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により形式上は仏教色が一掃、太山寺とは分離して正式に神社となり県社に列しました。祭神:瓊瓊伎命、天照皇大神、豊受姫大神。配祀:伊邪那岐神、大己貴神、天宇受賣命、御食津神、大物主神、別天神、月夜見尊。
太平山神社の境内には仏堂だった星宮神社(木造平屋建て、宝形造り、鉄板葺、桁行3間、梁間3間、外壁は真壁造り板張り木部朱色仕上げ、平成20年:2008年に栃木市指定文化財。祭神:磐裂根裂神、天之加々背男命)や仁王門だった随身門などが残り神仏習合の名残を見ることかが出来ます。随神門(神社山門)は享保8年(1723)に8代将軍徳川吉宗の寄進により造営されたもので、入母屋、銅板葺、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚門、楼門形式、「太平山」の旧山号額、下層部正面左右には随神像、背面左右には仁王像安置、外壁は真壁造板張り木部朱色仕上げ、江戸時代中期の楼門建築の遺構として貴重な事から昭和36年(1961)に栃木市指定文化財に指定、随神門の天井絵は雪舟の弟子磯辺等随によって描かれたもので貴重な事から栃木市指定文化財に指定されています。
又、天皇の祈願所だった事から参道には唐門、檜皮葺、一間一戸、朱色仕上げの勅使門が建立されています。太平山神社拝殿は木造平屋建て、切妻、銅板葺、平入、外壁は真壁造り板張り。本殿は一間社神明造り、銅板葺。拝殿、本殿共に貴重な事から平成20年(2008)に栃木市指定文化財に指定されています。
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