滝尾神社(日光市)概要: 滝尾神社は日光市山内に鎮座している神社です。滝尾神社の創建は弘仁11年(820)には弘法大師空海が女峰山に滝尾権現(田心姫命)を勧請したのが始まりと伝えられています。
弘法大師空海が筆した「遍照発揮性霊集」に勝道上人が二荒山(男体山)に登頂した事などが記されている事から、空海は当地の事を知っていた事は明白ですが、空海が日光の開発に携わった客観的な資料はありません。
現在日光関係の多くの由緒は鎌倉時代以降に日光修験による創作と思われるものが殆どとされ、滝尾神社の由来記である「日光山滝尾建立草創日記」も同様と思われます。このような事は滝尾神社に限った事ではありませんが、日光修験が発達する過程で権威付けとして世に知られる高僧が創建に関わった事にする必要性があったのかも知れません。
個人的には、当時の宗教観の1つとして三山信仰なるものがあり、キリスト教でいう三位一体と似たような3つの意味が重なり1つ大きな理を説くようなものが根底にあったと思われます。
日光三山に数えられる男体山、女峰山、太郎山にはそれぞれ大己貴命(男体山)、田心姫命(女峰山)、味耜高彦根命(太郎山)が祀られ、その神々を祀る新宮(現在の二荒山神社:大己貴命)、滝尾権現(現在の滝尾神社:田心姫命)、本宮神社(味耜高彦根命)がに日光三社権現として信仰されました。古くから神仏習合し本地仏として千手観音(大己貴命)、阿弥陀如来(田心姫命)、馬頭観音(味耜高彦根命)がそれぞれ輪王寺で祀られていました。
全国を見ると大和三山や熊野三山、出羽三山など○○三山は数多く存在し、日光でも数ある山々の中から三山が求められ主峰の男体山とそれに対する女峰山と太郎山が選定されたと思われます。何故、女峰山に田心姫命が祭られたのかは良く判りませんが、日光三山の祭神を鑑みると三山で親子(父母子)の関係を表現している事は推察されます。
男体山に祭られている大己貴命は大国主命の別称の1つで、数多くの婚儀を重ねた神でもあり、確かに田心姫命(滝尾神社の祭神)もその内の1柱ではありますが、そもそも田心姫命は宗像三女神の1柱として一般的には海神として理解されています。
しかし、田心姫は古事記では多紀理毘売命と表記され、タキリビメ、タギリヒメと読める事から、水が激しく流れる「滾り」に通じ、滝尾神社の境内には「白糸の滝」があり清流が流れている事からこの点では相応しい神とも言えます。
以上の事から察すると、女峰山の遥拝所として滝尾神社が設けられたのでは無く、当社の境内にある「白糸の滝」が修験者にとって修行場などで神聖な場だった事から、漠然とした水神が想定され、日光三山を選定するに当たり、大己貴命の妃神の中で最もと水に関わりが深い田心姫命が当てられ女峰山に祭られるようになったのかも知れません。
明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が排され、日光山内も二社一寺に統廃合され滝尾神社は二荒山神社の別宮に位置付けられています。
現在の滝尾神社楼門(神門)は神仏習合の名残で往時は仁王門として仁王像が安置され弘法大師の筆と伝えられた「女峰中宮」の扁額が掲げられていたそうです。
滝尾神社神門は元禄10年(1697)に建てられたもので、入母屋、銅瓦棒葺、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚楼門、外壁は真壁造り板張り木部朱塗り、上層部高欄付き、江戸時代中期の楼門の遺構として貴重な事から国重要文化財に指定されています。
滝尾神社本殿は正徳3年(1713)に造営されたもので、三間社流造、銅瓦棒葺き、桁行3間、梁間2間、正面3間向拝、外壁は真壁造り板張り、木部朱塗り、四周浜縁、高欄。又、本殿背後には扉が設けられ御神体である女峰山が拝めるようになっている珍しい造りになっています。
滝尾神社拝殿は正徳3年(1713)に造営されたもので、木造平屋建て、入母屋、銅瓦葺き、平入、桁行3間、梁間3間、真壁造り板張り、木部朱塗り、建具黒漆塗り。
滝尾神社境内には無念橋、酒の泉、子種石、縁結の笹、運試しの鳥居など史跡も多く霊地として信仰されていた名残が随所に見られ、本殿はじめ多くの社殿が国指定重要文化財に指定され世界遺産に登録されています。例大祭である4月の弥生祭では二荒山神社から滝尾の神輿が渡御します。
滝尾神社の文化財
・ 本殿(3間社流造、銅瓦葺)−正徳3年−国指定重要文化財
・ 拝殿(3×3間、入母屋、銅瓦葺、平入)−正徳3年−国指定重要文化財
・ 唐門(平唐門、銅瓦葺)−正徳3年−国指定重要文化財
・ 楼門(八脚楼門,三間一戸,入母屋,銅瓦葺)-元禄10年-国指定重要文化財
・ 無念橋(石造反り橋)−延宝5年−国指定重要文化財
日光山内・日光の社寺・世界遺産
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唐門を簡単に説明した動画
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